12月4日、阿川尚之先生の記念植樹を行った。ハナミズキを選んだ。園芸科学が専門の一ノ瀬友博学部長に「どんな木なんですかね」と聞いたら、「外来種ですね」とのこと。
この木を選んだのは、日米関係を象徴する木だからだ。慶應義塾と縁の深い尾崎行雄東京市長が1912年に米国の首都ワシントンDCに桜の木を贈った。今でも桜は時期になると満開の花を咲かせ、地元の人々は桜祭りを楽しみにしている。その御礼として米国から日本に贈られたのが北米原産のハナミズキだ。
阿川先生ご自身が外来種のようだった。私が初めてお目にかかったのは、私がまだ政策・メディア研究科の後期博士課程にいたときだ。草野厚先生の研究会のゲストとしていらした阿川先生の所作はアメリカ人そのものだった。机に腰掛け、足を椅子に乗せて話す姿はハリウッド映画で見る大学教授のようだった。
ほどなく総合政策学部教授に就任すると、小島朋之学部長の右腕として活躍する。弁護士ならではのスタイルだ。「裁判長!」とでも言いそうな雰囲気で学内会議で異議を唱える。しかし、反対ばかりだったわけではない。未来創造塾のアイデアは小島先生の依頼で阿川先生が考えたものだ。途中、お金がないという話になると「テントを張ってキャンプすれば良いんだよ」というのが口癖だった。未来創造塾のアイデアはその後、國領二郎先生や村林裕先生を中心とする多くの皆さんの力で実現している。
植樹の後、タブリエでSFCの教職員・卒業生、そして同志社大学の卒業生も交えた偲ぶ会が行われた。当初、40人ぐらいと想定していたところ、90人を超える皆さんが駆けつけてくれた。なつかしい顔も交え、阿川先生の思い出を語る明るい会だった。やると決まった途端、加茂具樹学部長、古谷知之さん、清水唯一朗さんがチームを作り、すばらしい会になった。中峯秀之事務長をはじめとする事務の皆さんも多大な協力をしてくださった。多くの人に声を掛け、明るくキャンパスを引っ張ってくださった阿川先生の人徳だ。
阿川先生は日本で生まれ育ったので、もちろん外来種ではない。むしろハイブリッドというべきか。幼い頃、お父上の影響でアメリカに興味を持ち、ハワイに留学したところからアメリカとの本格的な接触が始まる。慶應義塾高校から法学部の政治学科に進み、神谷不二先生の研究会で学んだ。しかし、途中で米国のジョージタウン大学に留学し、そのまま同大を卒業。慶應は中退した。そこから、アメリカ、法律、海をめぐる阿川先生の旅路が始まった。日米関係が一時的に悪化したときに刊行された『アメリカが嫌いですか』(新潮社、1993年)、『それでも私は親米を貫く』(勁草書房、2003年)はなかなかのインパクトだった。
『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書、1986年)で多くの若者を弁護士へと導いた。『海の友情』で多くの海上自衛官を励ました。これらの本の影響を受けた人は数万人はいるだろう。
ご本人が一番の専門とされていたのは『憲法で読むアメリカ史(上・下)』(PHP新書、2004年)、『憲法で読むアメリカ現代史』(NTT出版、2017年)あたりだろうか。私は『北極星号航海記』(講談社、2000年)、『わが英語今も旅の途中』(講談社、1998年)も好きだ。
日米関係を語るとき、阿川先生がよく引用していたのが、加藤良三・元駐米大使の言葉だ。阿川先生は加藤大使の下で広報文化担当の駐米公使を務めた(その体験は『マサチューセッツ通り2520番地』(講談社、2006年)に記されている)。日米関係は放っておくと荒れてしまう。常にガーデニングのように世話を続けなくてはいけないという趣旨の言葉だ。阿川先生は日米を行き来しながら、日米のガーデニングに携わっておられたように思う。その過程で多くの著作を残し、大学運営に携わり、そして多くの若い学生や後輩研究者を鼓舞しておられた。
大学運営もガーデニングのように手がかかる。SFCの未来も放っておいて何とかなるものではない。小島先生の木の隣に植えられた阿川先生のハナミズキを育てながら、SFCの未来も育てていこう。ちなみに、阿川先生は「SFCは滅びてもいい」とも仰っていた。
土屋大洋 常任理事/政策・メディア研究科 教授 教員プロフィール